愛ってなんですか?

「リアル」という言葉が、事実と不等式で結ばれる「歴史」の最先端として主に若者の間で流通しているのではないか、というのをこないだ、若者の立場から思いつきで書いた(http://d.hatena.ne.jp/mshuu/20050721#p2)。同じように「愛」について思いついたので書いておこうと思う。ほとんど同じ話だけど。

というわけで以下に、愛のけっこう大きい部分を占める構成成分は「想像力」なのではないか、みたいな話をしたいと思う。

「リアル」の元ネタとしての「現実」は、人の数だけ、一億通りある。一億の現実は、客観的に見れば、一億の「主観」ということになる。これも純粋に「事実」とは言えない。事実〜真実〜藪の中経由の環状電車へ乗車。

「客観的に」というのもくせ者であって、「歴史」は「客観のフォーマット」によって作られていると言える。フォーマットの最たるものはテレビ・新聞などのマスコミのもの。

事実(トピック)が目の前に差し出されたとき、経由されたであろう主観を一度客観視するべきである。また、「客観視」するときに、「歴史」化のレールに乗った「客観のフォーマット」にハマることなく、他者の主観に対する想像力を持つことが重要である。その想像力こそが、「なんか、こう、愛がないよね」と若者が言う時の「愛」なのではないか。

電波男』を一読したとき、「愛」についての下りには、(はんぶんねたなのかな)、と曖昧な笑顔をたたえたのだが、今なら少し分かる。「恋愛資本主義」において神の座に鎮座する「恋愛」という単語を形成する「恋」と「愛」は、我々にとって次元の異なる二種類のディスコミュニケーションを表しているのである。愛についての本田さんの言及は、「愛」の脱構築だったのだ。

この意味での「愛」は、文学の存在意義でもある。この意味に限定すれば、「文学とは愛を語るものだ」と、臆面なく言える。『電波男』を読んだときに「これこそが文学だ」という感想を持ったのだが、今それを確信する。