ウ゛ァーチャルリアクション

一時1ドル107円台だって。や、高っ!

えー、以上のように、実際に手で触っていない物事にたいする反応とゆうのはいい加減なモノです。太陽が東から昇ろうが西からだろうが、実際には関係ない。ただバカボンの歌の話をしたいだけなのです。

しかし、そうゆうウ゛ァーチャルな物事にたいするリアクションをことさら重視するのが、皮肉にも「実社会」とゆうモノだったりするのですな。(なんか童貞が女を語ってるときの痛さ!)

さて、長井秀和の「まちがいない!」が流行語対象から外れましたが、これが実社会でどう流通していたかと思い出しますと、「まちがい」の質が、終始、本来のものとずれていたと気付きます。

恥の回避とでも言いましょうか、「あの店にしときゃまちがいないよね」みたいな使われ方であったり、互いの共通理解を確認する際の合言葉であったり。

このように実社会の表面を取り繕う使用目的と、長井秀和本人のそれは真逆であり、触っていないからこそ、ウ゛ァーチャル=実・社会の裏側をえぐることに成功している「まちがいない!」は、虫ピンで留めてしまうには些か生きが良すぎたと言えましょう。

正論を展開しようとすればするほど、言葉の死臭が鼻につきます。些か、とか。死せる孔明としての利用方しか、所詮、残ってないのでしょうか、言葉には。