インファナルアフェア

宅間守死刑囚への刑の執行について、遺族の一人がテレビの取材に応えていた。父親とおぼしき男性は、応えていたが、「執行されましたが、どうですか?」という理不尽な取材に対し、答えはしなかった。ただ、彼が死んだのだという認識だけで、その他の言葉は浮かばないというようなことを言った。

一方、惨劇の舞台となった池田小の校長は、彼の死が被害者及び周囲の人間に、何らかのポジティブなものをもたらしてくれれば、というようなコメントを出した。

絶対の悪は宅間守であり、その他のどの人間のどの反応にも、非難の余地はない。ただ、子供たちが事件をどう消化するかということは、何を置いても留意すべきだ。

先に挙げた遺族の態度は、非常に真摯だと思う。別の遺族女性が、怖い人はもう死んだからね、と伝えましたと涙を見せていたが、そのように完結した、自己防衛と呼べる態度の方がむしろ自然だろう。

言葉とは、やくざなものだ。それ自体で何も生み出さず、それでいて時間を動かす。

校長の一見幼稚なコメントは、死刑というものの本質を浮かび上がらせている。死刑囚の死が何を残し、また何を消し去るのか。

あまりに理不尽な、あまりに不条理な犯罪。出てきた言葉に隠れた残酷さ。出てこなかった言葉に表れる誠実さ。

プータローが毎日教育教育とブログに書くってのもどうかと思うのだが、子供たちは上のような大人の「言葉」に戸惑うことしかできないと思う。一貫してればいいというわけでもないけど。(一つ言えるのは「惨劇の舞台となった」などという飾りの言葉は自動消去していいということ)

ケロロ軍曹』3回分まとめ見。ケロロの非・不条理さは現実のパロディとして、大人(だと自分では思っている)の目には映る。

お伽草子』。酒天童子が彼を愛する女の手により葬られた場面を、宅間守の獄中結婚とリンクさせずにはいられなかった。

ギャラクシーエンジェル』。この作品は教育と切り離して語れない。いい意味でこれはパラリンピックなのだ、たとえば『シノブ伝』をオリンピックとして。

十二国記』『プラネテス』は大河&月9だ。何も思わず楽しめる。

稲垣美晴フィンランド語は猫の言葉』を読む。冬に加藤紀子の仏留学記『私にもできたいくつかのこと』を読んだが、その修学版。学問はリアルなモノだが芸能は光なので加藤紀子はあれでOK。

僕はカウリスマキが好きでフィンランド

最近アクセスが好調なので宣伝。「みるくま。」好評連載中。
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