リテラリーインテンシティ

狙うべき累は一つだった。文学と絶妙な距離を取り、文学的緊張の隙をついて「制度」を突き抜けた、イノセントなイメージの具現を勝ち取ったのである。電光石火の好スティールを目の当たりに僕は画面の前で息を飲んだ。

恋風』第11話。主人公の耕四郎は、12歳離れた実の妹・七夏とついに結ばれた。−−−

「日本の「近代文学」は告白の形式とともにはじまったといってもよい。
(・・・)告白という形式、あるいは告白という制度が、告白さるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。」(柄谷行人日本近代文学の起源』 講談社文芸文庫p.97,98)

「《蒲団》では、まったくとるにたらないことが告白されている。たぶん花袋はもっと懺悔に値することをやっていたはずである。しかし、それを告白しないで、とるにたらないことを告白するということ、そこに「告白」というものの特異性がある。
(・・・)花袋が告白しようとした「かくして置いたもの」は、すでに「告白」という制度によって存在させられたものだというべきではないのか。あるいは「自己の精神」なるものこそ、告白という制度によって存在させられたものではないか。」(同p.99〜100)

恋風』という作品は「誰もが想像していたもの」を具現化する過程の、ディテールを埋めるという作業において生じる「リアリティ」の揺れが、受け手の一喜一憂を誘ってきた。

「日本における自然主義文学の先駆けである田山花袋の『蒲団』を引くまでもなく、妹の下着を嗅いだ主人公の自涜はごく自然で、それ自体は「無罪」としてよい。不自然であり罪悪なのは、結果に向けて全てのシチュエーションが織りなされている、つまりは自然主義を逆手にとって「13歳年下の妹でオナニーする」という行為を受け手に認めさせる、姑息さである。」(4月22日の日記)

第4話を見た僕はこのような感想を持ったが、『恋風』において告白は、花袋が図らずも「手段」としてしまった「制度」の中にはなく、「制度」を逆用した「目的」であったと考えられる。「妹とセックスする」という結果、ひいては「妹とセックスした、という告白」への布石として、下着クンクンからのオナニーとそこへ向かう強引な伏線も、とってつけたような千鳥の他者性も、あるいは七夏を人形のように見せる耕四郎の「一人称」さえも、存在したというわけだ。同じく「恋愛」という概念もまた、その一つに数えられることは確かである。

それが可能だったのは、作者の中にあったものが、性の対象としての妹を獲得したい、という「罪深い」欲望ではなく、目的としての「告白」のさらに向こう側にある、単純に「妹とのセックス」という事象のみに対する、ストイックとも言える憧憬であったからに違いない。狙うべき累は、一つだった。

「文学からの盗塁(スティール)」。それは現代においてまさに「文学」そのものの可能性の一つではないかとすら思ってしまうのだが、買いかぶり過ぎだろうか。