コインロッカー

思えば学生時代から、随分とリリー・フランキーにカネを払っている。もちろん煙草(吸わない)や少年ジャンプ(買ったことない)の蓄積に比べれば微々たるものだが、スピルバーグに払った額よりも大きいことは確かだ。

この場合の「カネを払う」とは行為としてのそれであり、家計レベルで言えば「自由になる金」(ファッション好きが9割ファッションに回すあれ)を充てたという意味になる。しかし自由になるカネというのが常にあるわけでもなく、彼が借金した話を読むために、赤いカードでキャッシングして週刊宝石を購入したことすらある。

食費を削ってでも本を買えと、大学(文学部)時代の授業で言われて遵守していることの延長ということになるのだろうが、ブックオフで買い叩いた本を転売して生計を立てているホームレス作家がいた現実を思うと些かアナクロな方針とも言えるだろう。

一方でというか、同じサイドなのかもしれないが、僕はオタク的なカネの払い方も、随分としている。中学時代、セーラームーンには少なくとも5万円は使ったし、広末涼子へは高校時代から20万くらい使っている。オタク的というのは少なくとも僕の中でタニマチ的という表現とほぼ同等で、行為としてカネを払うことで得られる、権利や何かにも、そのベクトルは向いている。

もちろんそれ自体がが目的化してしまっては意味がない。権利とともに生じてくる、責任めいたものが、薄れてくるからだ。あるいは「オタク的」と「タニマチ的」の差異は、大まかにはそこにあるのかもしれない。

今度こそ「一方で」、意図しないところでの支払いもある。ジャンプを買ったことがない僕でも、『ワンピース』を毎週見、食玩を買う。ジャンプにカネを払っているも同然だ。また、僕がコカコーラを飲むことでアメリカに資本が流出し、彼らの雇う奴隷が栽培している煙草の葉に養分を供給しているのかもしれない。そういう意味では渋谷を歩くだけで、スピルバーグの懐を潤していないとも言いきれない。そういう、ほとんど不可抗力と言える支出は、家計レベルでいうと、これはもう、国民年金に違いない。可能なかぎり、支払いたくないものである。

などと、スカパーの無料放送で始めて認識したリリーフランキーの「TR2」を聴きながら思う、「ロックの日」。

ほとんど郷愁の念でコンビニへ行って雑誌を数冊立ち読み。その帰り、なぜリリーフランキーにカネを払っていたのかとあらためて考える。そして今後自分はどうやってこの、200円しかない財布を温めていけばよいのか。

結果、僕がリリーフランキーに対して払っていたような、オタク的でもあり、タニマチ的でもあるカネを、若い子に払って(恵んで)貰えるようになろうと決意。まぁ乞食です。

本業の傍ら今だに面白いことを書いている松尾スズキより、私はリリー・フランキーになりたい。僕の目標は、絵の描けないリリー・フランキーだ。

そんな僕が執筆中の小説タイトルは『世界の中心で、アイをさける』。現在50枚ほど書き終え、残り半分といったところ。

日本史上最もプロダクツとして売れた本となった『世界の中心で、愛をさけぶ』だが、ここまで売れるには、僕にタニマチ的なカネを支払ってもらわねばならない若い子の、本を買うという具体的な行為までが、意図しないところのカネの動き、容易に言ってしまうと「搾取」のシステムに組み込まれてしまっているに違いなく、そこに僕は恐怖を感じるわけだ。上記タイトルの小説執筆は、その恐怖からの、100%逃避に他ならない。

そんなことをしているボク、に、カネを恵んでもいいと思って貰いたいわけである。

容量の50%が水で満たされたコップがテーブルにあるとする。それを見て「コップに水が、まだ半分もある」と考えるか、「もう、半分しかない」と考えるか。あなたはどうだろうか。私はこう考える。コップに水が、

「まだ半分しか入れてもらえてない!」