フジヤマダイアリー

昼、山下書店でブンゲイ別冊、武田百合子のムックを立ち読み。武田泰淳の奥さん、くらいしか知らなかったが、たいした人だ。

最近に読んだ日記はチャールズ・ブコウスキーが晩年綴った『死をポケットに入れて』だが、タイトルも示す通り、老いや死について、年相応な自然さで思惟を巡らせるこの日記の付け方は、分かる。ある意味で男性的な日記と言えるかもしれない。

富士日記』は、夫・武田泰淳にほとんど懇願されて始まり、泰淳の死と同時に終えられたそうだ。この感覚が、女性的と呼べばいいのか知らないが、不可思議である。坪内祐三の回想で「本来的な作家」という言葉が使われていていたが、そういうことなのだろうか。「本来的な」というと、素人目には職業的に非業ともいえる末路をたどった、女性を想起させる。女優で言う、原節子なんかはまさにそうなんだろう。

死が生に向かってくるか、生が死に向かっているか。「生活」を綴ったものである日記は、二種類に大別できるだろう。いま男性的と読んだのは、後者であるが、前者が女性的なのかというと、分からない。

この日記は、どちらでもない気がする。強いて言うなら「生の待ちぼうけ日記」であろうか。