ウルフズペイン

昼、渋谷の山下書店で「文學界」立ち読みの続きを、しようと思ったら売り切れ。仕方ないので同じ棚にあった別冊の文芸春秋を立ち読み。目に留まった見出しは、乙一滝本竜彦の対談。どちらもパラパラとしか読んだことはないが、印象としては乙一はナマエ(肩書き)だけで持っていた印象よりもダウンし、逆にナマエ作家の滝本竜彦には、案外悪い印象は持たなかった。

幻覚剤とかキノコを、二人は「昔」やっていた、とかで、それが自分の作品にどう関わっているか、関わっていないか、という「抱腹必至」と銘打たれた対談。ほおどれどれ、という感じで読み始めたが、

笑えねーよ。誰も笑えない。この対談には、笑えないカラクリがある。

庇護されていることに対する開き直りが、二人の共通点。開き直り、というのはもしかしたら同世代という親近感からくる幻想かもしれない。二人が庇護されていることに対して、本気でそれを感じていないという確証はない。それというのは、他でもない、優越感だ。

2ちゃんねるの典型的なスレッドを見ると(とは言ってもあまりじっくり見たことがないので、「一般的な2ちゃんねるの印象」くらいにしておいた方がいいかもしれない)、彼らは「優越感のピラミッド」を形成している。彼らが何か発言する。対して他の誰かが返信する、その返信に対して本人や第三者が返信。目的はすべて、優越感の獲得。

その「2ちゃん的優越感」は、2ちゃんの中でだけ成立しうるのかと思っていた。しかし最近、どうやらこれが、社会常識として蔓延しているのではないかと思い始めている。

二人の若い作家が「2ちゃん的優越感」を得ているのは、社会からの庇護からだけではない。そこに端を発し、すべての発言が「2ちゃん的」になっている。

ホッブズが『リヴァイアサン』ですべての笑いは優越感から来るものだと説いていたが、「2ちゃん的優越感」はホッブズの時代にも確かに存在した、至極シンプルな、プリミティヴとも言える優越感だったのだ、どうやら。こんな二人の対談で、笑えるはずはない。やはり人間は、オオカミなのだ。笑いについての項だけ取りだすと『リヴァイアサン』は現代では古くさいが、社会評論の古典の一部として、「笑い=優越感」説は真理でもあった。

滝本竜彦は、このように手軽に群れてはいけない種類のオオカミだと思うが。

夜、セガサターン(白)でサクラ大戦花組対戦コラムス』をどっぷり。『マリみて』なら5冊は読めるだろうという時間、やってしまう。コラムスはナナメの「ぷよぷよ」みたいなゲーム。ということはつまり、中毒聖がある(変換ママ)。赤や青の宝石を脳裏から掃き出せないまま明け方就寝。