ブラザーベア

昨日の日記がなぜあんなに長くなったのかというと、セブンアップを探し歩いて家に着いたとき、なぜかコートのポケットに『マリア様がみてる』(コバルト文庫)が入っていたからだ。代わりに700円入っていた財布から、500円なくなっていた。

夕方、2時間半ほどで読了。ビデオで2〜4話を見直し、昨日の「マリみてユーモア論」が浮かんだというわけだ。アキレスは亀を、ロサ・フェティダは大阪を、鳥居江利子春日歩を越えられないという真理。ついでに文面まで所々「マリみて」風になっている。

井の頭線で、学校名は忘れたけど、リリアン並の学校の広告を見たことがある。今いくつかのキーワードで検索してみて、カトリック系一貫教育の女学校って、最終的には「グローバル社会の中で自立した女性を・・・」云々に行き着いているが、そこは違った。「純粋無垢な箱入り娘を育成する」くらいの勢いだった気がする。

でアニメと原作を比べて。1,2話はほぼ完ぺき。問題は3話になってくるわけだ。結論から言うと、これでいいと思う。マリみては『トレインスポッティング』なのだ。映像版はただ、原作の雰囲気を伝えることをプライオリティとする。原作をひっくり返すような冒険もしない代わりに、原作の冒険もいくつか失われる。それでいい。

普段なら平気でシックスセンスのオチなんかを言いふらしてしまう僕だが、マリア様の前では静粛に、ゆっくりと話を進める。花寺の生徒会長・柏木の実態が、アニメと原作の大きな違いだが、原作を読んでからアニメを見直すと、やはりいくつかの矛盾はあった。ロサギガンティアの例のセリフだ。結果として祐巳ちゃんの中でグレーゾーンに落ち着いたとしても、プロセスがここまで違うと、ロサギガンティアのみならず祥子様との関係も、軽薄になってしまう。

どこでNGが出たのか知らないが。でもラストのサファイアのくだり同様、沈黙を利用して、リンクさせることに、とりあえず成功していると言ってもよいのではないだろうか。でも。

それでいい。これが結論である。ラストのカット&ペーストも好き。黄薔薇革命もアニメを見てから読もう。

深夜、テレビで『けものがれ、俺らの猿と』をやっていた。何度見てもこれ、執拗なほど原作に忠実にも関わらず、鳥肌実にかかったウェイトが異様。鶏群の一鶴という諺とは違うが、バランスの悪さにはある種の「0点」感。

未見の『人間の屑』のビデオジャケットを見ても似たような無感動を予感したし、もしかしたら言われている以上に「町田康は映画化が困難」なのかもしれない。

坂を駆け降りはじめてしまっている町田康の主人公に共感してしまうことが、時々ある。多分精神状態のよくない時なのだろうが、心地の悪いものではない。一年ほど前、『夫婦茶碗』を読んだとき、僕はそういう意味でピークだったのか、作品群の中で最狂とも言える主人公に深く共感していた。驚いたのは、主人公がこぐまを主人公にした物語を創作して一もうけ、と考えながら道に迷う場面である。

僕はそのころ、全く同じことを経験していたのだ。(そのくまの物語は一年寝かせ、先日完成した)

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町蔵さま、実は私も、ずうっとそう思っていたんです。