オリジナリティについて。

数ヶ月前、バイト中暇だったので、というかバイトが苦痛だったので「オリジナリティ」について考えていて、その経過を少しココに書いたところ、同じ日に、大学院に通っている友人のブログでもオリジナリティについて書かれていた。このようなシンクロニシティが、多々ある。

いや、これはシンクロニシティではなく、とやや強引にでも言ってしまいたいのだが、なぜオリジナリティというものに対して、非社会人(大学院生やフリーターのすべてがそうだというのではなく、個人として)の二人が引っかかり、考え、答え的なことまで出すのかというと、たぶん、「オリジナリティ」とかが、邪魔くさいのである。日常生活に支障をきたすレベルで。

とりあえず今日、バイト中に窓の外、植え込みの日陰で寝たり起きたり、遊んだりを4時間繰り返していた若い野良猫を一目見て「猫になりたい」と思った自分にストップを掛けてから、その猫が飽きて消えるまでの間ずっとオリジナリティのことを考えていたので、経過を書き留めておこうと思う。

「あるということが前提になってはいるが、もとよりそんなものはあるのか?」というのは何に対しても言えることだが、本件に関して、大体三つくらい、柱と呼べそうなモノを見つけた気がする。その柱に、細かい梁やなんかを組み合わせていくと、オリジナリティという砂上の楼閣の、骨格が少し見えるかなと思う。

まず、オリジナリティというのは、100%、「商品」に対して使われるモノだと仮定する。イコール「他社の商品にないモノ」というわけである。ここで、我ながら目から鱗が落ちた。これを一本目の柱とする。

ここで「個性」を登場させる。

ここで使う「個性」を、とりあえず割り切れないところまで割ってみると、「個性」=「選択の結果」となる。生まれる→泣く→母乳を吸う、くらいから後、人は無限大の選択肢の中から折々選び、生きていくわけで、そういう意味で、個性のない人はいない。突き詰めると脳とかDNAとかまでいく、細かいユニットになりそうで、ここを割り切れないところとする。以後、「個性」という言葉を使った際は、このユニットのことを言っており、曖昧な「いわゆる個性」のことではない。

なぜ個性を早めに登場させたかというと、オリジナリティとは、商品の「作り手」の、個性が反映されるモノと定義づけたいからである。

早くも、今まで抱いていた「オリジナリティ」と、やや距離ができてしまったような気がしてきた。今までのイメージを思い出すと、オリジナリティとは「商品」ではなく「作品」に対して使われるものであり、「個性」は、「作家の、個性」が反映されるモノだという風だったと思う。

ここでいう「作品」は、「純粋芸術作品」という、おそらくは幻想上の産物であって、すべて上で定義した中の「商品」と括ってもよいのだろう。しかし、こっち側(=純粋芸術作品と、その作家の個性が反映されたものとしての、「オリジナリティ」)と、完全に切り離すことに、残尿感があるのも確かである。

オリジナリティが「商品の、作り手」の個性が反映するものだとすると、「純粋芸術作品」の作家が彼の個性を反映させて作った作品を「商品」に変換する作業において見いだされるモノが、オリジナリティだということになる。

売れる売れないを無視すれば、作品の作家はこそは「天才」である。そういうことにしておく。そして、上の過程で、作家自ら「オリジナリティ」を意識して作った場合、作品は「(純粋芸術)作品」ではなく、「商品」に立ち返り、(天才)作家は作家でなく「作り手」になる(「天才」の定義が狭すぎるというなら、「作り手としての天才」と分割し、以下そのループ)。現在、市場に数え切れないほどの「天才」が流通しているが、そのほぼ100%は、後者であろう。

売れる売れないは、無視していいものではない。必ず加味すべきモノである。「オリジナリティ」が、常に対「カタマリ」であるからである。売れる売れないを加味するならば、売れた場合は「天才」だが、売れなかった場合「天才的=天才の個性の持ち主」となる。後者はバカとも言い換えられる。まさに「バカと天才は紙一重」である。オリジナリティには、売れるものと売れないもの、二本の柱が、ある、とする。

例を挙げるなら、今流行の「ブログ」。タレントなどが書いている商用のモノを除けば、数多のブログに「オリジナリティ」はない。いくつかの、オリジナリティの「ある」ブログが、(それが書き手、読み手のどちらが「作り手」となったにしろ)「商品」として流通するのである。「個性」をそのまま載せていながら「商品」化したブログの書き手はまさに「天才作家」であるが、そんなブログは今のところ、見たことがない。

ここで、ほぼ結論として、槇原敬之の『世界に一つだけの花』を思い出した。「ナンバーワンよりオンリーワン」である。

この歌の流行に関して私は気色の悪さを感じていたが、すべての流行に当てはまる「否定派でも言及した時点で負け」な風潮に負け、深く考えないようにしていた。思いつきで出す答えはマッキーのホモネタだったり、でもみんな本音言うとナンバーワンがいいんじゃないのというような、欺瞞をあぶり出すのだったりと、お茶を濁すモノばかりだった。

今までの曖昧な「オリジナリティ」感では、その立ち位置は「オンリーワン」側だということになる。しかし、今「商品」と不可分と定義づけた「オリジナリティ」は、モロに「ナンバーワン」のことを言っていることになる。

ひとつひとつのタネ=個性を花開かせる(イコール、「幸福」だろう、マッキーの資質からして)のに精一杯になればいいところを、「売れる売れない」を意識するのだ。なぜ競争するのだ。なぜ「商品」的な価値にしか個性を使わないのか。という、これは個性賛美の歌である。上で行ってきたことを当てはめると、ナンバーワンとオンリーワンは、そう対立するものではない。「オリジナリティ」を「オンリーワン的ワード」だと思い込み、平気で「ナンバーワン」側に立っているからこそ、この歌を聴いて感動できるのだろう。その数ざっと、一億人くらい?

この歌が批判するのは、「オリジナリティ」である。一億人は、オリジナリティ(もうそろそろ資本主義社会と言い換えちゃっていいだろう)に決して反発しない。あって当たり前すぎて、見えないのである。私には、見える。批判は、もちろんできない。そおっとオリジナリティを出そうとすると、2億個の白い目がこちらを睨む。恨むべくは、個性である。食うためにオリジナリティを発揮しようとすると、取り返しの着かない選択の末に形成された、個性が邪魔になる。すげー邪魔である。一億人から成るユニット「オンリーワン」は、しかし、この歌を歌い、個性を賛美するのだ。ザ・袋小路。

冒頭、猫になりたいと思った私の個性は、オリジナリティを欠く、ということになる。すでに存在するオリジナリティから、金を得ることはできない。それどころか、気づかぬ間に搾取されているかもしれない。そういえば、そう歌ったスピッツのCDをレンタルしたことがある。恐ろしや、このような個性は、消去するしかない。じゃあ「アイラブニューヨーク」も? 消去。「がんばれニッポン!」、消去。「面白き事なき世を面白…」、消去。「ラーメン」、「マクドナルド」、消去。

で、最後に何か残ったかって? 何も残るはずがない。そこで取らぬ狸の皮算用、未来に手を伸ばす。

「ミュージシャン」「サッカー選手」「大リーガー」。「宝くじ」、「埋蔵金」。「銀行強盗」、「コンビニ強盗」、「サラリーマン」、「ニート」「引きこもり」、「ホームレス」、「飛び降り」、「割腹」、「練炭」。消去、消去、消去、消去、消去………………夢、希望、消去。絶望、消去。

以上3203字も消去。以下消去。