青息吐息

こないだゴッホ展を見に行ったのだが、東京会場には「ひまわり」が来てない。ゴッホ美術館とか、小さなとこのを寄せ集めたあれで、ゴッホらしさを感じるものは2,3枚。ひまわりでもあれば、まあだまされてやってもいいかなという感じの構成だっただけに、消化不良の感が否めなかったのであるが、そのような感想を持った私の、憤懣の一面が、「青の時代がなかった」ということで彩色されていたのだから、「ゴッホ」とかで検索されてきた読者は驚かれるに違いない。

そう、「青の時代」は、ピカソである。私はピカソの目がべーっとなているような絵画をを見て何か分かる気ががしないのだが、青の時代は理解でき、愛でていたのである。

一方、一時の松っちゃんがあれだけフィーチャーしていたのだから、健全な男子としてゴッホ関連の書籍の二、三冊読んだ口であって、松っちゃんほどではないが、共感や尊敬の念を持っていた。

それが、学生時代の話である。しばらくゴッホともピカソとも離れていて、今ゴッホ見たとき、青の時代がないのかよ、となっていたのである。しかも片手以上年下の女性に指摘されたのだから、かなり恥ずかしい方の話であり、それを証明するようにすでに白血球とかが頑張ったのか記憶も曖昧になってきているのだが、その感じを言葉で表現しようと今試みていて、ある人物の気持ちが、手に取るように分かった。

「大好きな、言葉や、フレーズや、歌を、ノートに書き留めて、その中の言葉たちが、人のものと自分のものとの区別が付かなくなって、きてしまいまして、こういうことになってしまいました。なので、自覚がなかったとしか申し上げられません、すいません」

の人ね。

真珠の耳飾りの少女』を見た。ブラザーベアを見に行ったときに予告編で流れていて、なんと予告編だけで涙してしまったので、機会があれば見てみようと思っていた作品である。

内容はというと、フェルメールと、名画のモデルとなった人物の織りなすチープなメロドラマである。しかしこのチープさがよかった。舞台がオランダなのに英語でしゃべってるチープさも、むしろ敷居が高くなくていいと感じた。映画ブゼイが名画にたてつく気は毛頭ありませんと潔く腹を見せる態度も、このメロドラマの美しさを支えている。そういうことだからもっとチープな感想を言ってもいい? これ、萌えきっかけの映画ですよ。ただ、クライマックスのラブシーンは、原作者がこれ女性なんだと思うけど、いかにも女性らしく、ここで萌えとは決別。あそこをああ描けたと言うことはゲイなのかもしれないけど、男性である監督の才能がそこに認められた。

ほめてんだかけなしてんだかって、ほめてんだよ。どっかでやってたらでかい画面で見直したい。

かつて、K−1界に「一撃」旋風を巻き起こしていた極真会館フランシスコ・フィリオが、ある試合でフグだったか誰だかにパンチを一発ガツンと食らい、敗北した。谷川貞治なんかはことあるごとに言っていたが、顔面パンチなしの極真選手であるフィリオが、それでK−1の恐ろしさを初めて知ってしまった。以来、フィリオのファイトスタイルは「一撃」とはほど遠いチキンなものとなってしまい(チキンフィリオ)、結局、総合みたいな試合の機微を見たいわけではない、私のような、幼稚なK−1ファンから見捨てられてしまった。

一見派手になった最近のロックフェラー湯浅こと湯浅卓を見ていると、その内面を吹きすさぶ、チキンフィリオな臆病風を肌に感じる。