真理凝固

「人間が真理の一つを自分のものにし、それを自分の真理と呼び、その真理に従って自分の生涯を生きようとし始めたとたんに、その人間はグロテスクな姿になり、彼の抱いた真理は虚偽に変る」(シャーウッド・アンダーソン『ワインズバーグ・オハイオ』)

この『ワインズバーグ・オハイオ』という作品は5〜6ページの掌編が連なる形で一編の長編が構成されているのだが、この「グロテスクなもの」という概念は全編に一貫して描かれており、作品のテーマとも言える。のだと思う。全部読んでないけど。

時代的に言えばヘミングウェイの前で、「人間の本質をえぐり出す・・・!」みたいな仰々しいことではないのだが、けっこうえぐられませんか? 引用箇所。このグロテスクさというのは、主人公の老作家が死ぬ間際か何かに、「夢でない夢」という形で見るのだけれど、その際にはもう、物理的なグロテスク、シュールみたいなことになっている。見知った人々が、グロテスクな姿形になっていて、驚くと。だから単純に還元して、自分が知っているすべての人間にある凝り固まった感をそう呼んだのだというのは短絡的なのかもしれないが、ちょっと距離を置けば、あるいはただ一人、寝床で彼らのことを思い浮かべるとすると、グロテスクが姿形にかかっていてもあながち大外れではなくない?

個性というものは勝手に、たぶん子供の頃受けた教育のせいで、流動的なものだと思っていたけど、こうして凝り固まった、「グロテスクなもの」が、その人の個性と呼べないだろうか。キャラ、「キャラクター」と個性はたぶん別物ということでいいんだと思うが、ここで思い出すのは『ワンピース』である。原作ね。私は最近のサンジが特に、キャラクターに引っ張られている感じがしてイヤだったのだが、メリー号を巡るウソップとルフィの対立は、双方の「グロテスクさ」、個性って呼んでいいなら、そのぶつかり合いだと思う。だから、おもしろい。これまでもワンピースには、グロテスクになった人たちがたくさん出てきた。風車のおっちゃんとか、クジラとか。「信念」って言葉がよく出てきて、それを上の「真理」に置き換えてみるなら、そこ張って戦ってるんだよね、ワンピースの人たちは。サンジはもっとがんばりなさい。

同じ文脈で、くじアン小説版。時乃ちゃん問題。時乃ちゃんはナチュラルボーン・サンジ。ナチュラルボーンな部分が、イノセンスだとは思うけどねぇ。俺小牧ちゃんきらーい。いい子ではあるんだけど。会長に関しては、ちょっともう、お手上げ。げんしけん読んでる限り、副会長だったんだけど、会長強すぎ。格ゲー本当に出ないかな。