付和雷同

恋愛の相談をする相手に必要なのは、ただ第三者であるということである。経験、では決してないどころか、それは第三者であるということの障害となる。ブスや童貞がやたらと恋愛相談に乗りたがるのは、「経験」に基づいて相談に乗ることによって幻想上のそれを獲得しようとする狙いからであるが、彼らがその致命的なミスに気づかないのも、経験不足からではなく、恋愛との距離の取り方の問題なのではないか。

小田急の電車の中での、二十歳そこそこの男女の会話。恋人同士というわけではなさそう。

女「前に酔っぱらって、新宿で始発乗ったのに目が覚めたら小田原とかで、結局家に着いたの10時とかで」。これはただの乗り過ごしというのではなく、一本で県境を越えて往復する路線ならではの「小田急あるあるネタ」なので、同じく小田急に乗っている男性は、あるある、というようなハイテンションなリアクションをするのが、社交辞令というものなのだが、テレビを見なかったとか、本を読んでないとかそういう問題でもなく、たぶん頭が悪いんだと思うのだが彼は、「まあ、それはご苦労様としか言えないけども」と、しっかりとユーモアのコードを押さえたまま、ストロークした。二十歳そこそこなので彼にとって誰があれか解らないが、「気分は松っちゃん」とでも言いたくなるようなストロークだった。「まあ、それはご苦労様としか言えないけども」。

「ええええええぇ??」「うそおおおぉん!?」、こっちが松っちゃんになるわ。その、考え得る限り最低の反応に、女の子は何と言ったか。

女「で、乗り換えとかしたら、また寝過ごしちゃって、また向こうの方行っちゃって(笑)」

男「あぁん、あぁん」

女の子の後付けは、嘘なのだが、ピュアで美しい嘘だ。なっち的ピュア、ウソップ的美。人は会話を成立させるため嘘ばかりついているが、こういう美しい嘘に出会うとほっとする。

保坂和志の『プレーンソング』は隙の全くない小説だったが、若い男の子が他人のせりふを聞いて「にやにや、あれって嘘だよね」と言う場面の、嘘の実例だけは違和感があった。会話が成立することの違和からこの小説は上手いことすり抜けていたが、本来(=会話中の嘘)との衝突を避けるのに、ふわりと高みに上がって見下すという立場を採ったのは仕方のないことなのか。

『優しい時間』の違和感をグーグルで検索したら、2ちゃんねるで出てきた。どこまで許すかということだが、個人的には今のところ、耄碌しているのは倉本聰ではなく「昭和」なのであると今のところは思っている。と書いていて、アユの物語・映画版を思い出した。あれも腐った昭和なのだと考えようと思えば思えるけど。

右往左往しながら確定申告。ネットで全部できるのかと思ってたのに、作成した書類を税務署に持ってかなきゃいけなかった。おニューのクリアファイルにセットオン。