ミスキャスト

ドブネズミは醜い、ドブネズミの醜さ、ドブネズミは汚い、ドブネズミの汚さ。

以上四つをグーグルにかけてみたところ、驚いたことに、「ドブネズミは汚い」が三件引っ掛かっただけで、他はあのグーグルで、一件もヒットしなかった。

僕はドブネズミの醜さを歌いたい。

などと、例えば下北沢の屋根裏で叫んでみたところで、それは所詮ブルーハーツへのアンチテーゼにしかならず、僕らのような若造がそんなことをしてみたところで、まったく意味がないことなのだ。

と、若いロッカー全員が思っているとしたら、僕がブルーハーツを知らないからかもしれないが、ちょっとあれなんじゃないだろうか。

あるいは、これをそうするということは、「商業主義こそがロックなのだ、逆に!」みたいなことを叫ぶのと同じ行為なのかもしれない。しかし、努力(自己欺瞞)に努力(自己欺瞞)を重ねてブルーハーツをなかったことにアタマを組み替えた上で、ドブネズミの汚さって、見逃せるものではないと思う。

ブルーハーツを知らないくらいだから中原昌也の音楽活動は全く知らないのだが、長編『あらゆる場所に花束が…』を始めとする彼の小説には、そんな「ドブネズミの汚さ」が、きちんと、描かれているように思える。彼の作る音楽もそうなのだろうか。だとしたら、

誰がそんなもの聴くんだろうか。

僕は、ゆずやEXILEの文体でドブネズミの醜さを描くような、小説を書いているのだがそんなもの、誰が読むんだろうか。それこそ中原昌也のパロディとしてしか、喜ばれない。全世界で、六人くらい? しかしそれは引き算をした結果であって、ゆず×エグザイルというだけで二百万人である。

と書くことで60人の賛同を得ようとしている、姑息(間違った意味で)なボク。

テレビを録画しておいた『リディック』。

映画館で、あんな色の空の下で過ごす時間は心地よかっただろうと思う。

作品とは少し離れるが子の作品、公解凍時(来月G5のiMacを買おう。絶対買おう。)この作品、公開当時、笠井アナが「いやぁ、期待せずに試写に行ったら、どっこい、おんもしろいの!」みたいな褒め方をしていたのを覚えている。『キャッツ&ドッグス』とか、『えびボクサー』(そういえば両方映画館で見た)もそうだった。最近も、どの作品か忘れたが同じような褒め方をしていた。

笠井アナをイジるなんてテレビブロス読者の主婦みたいで厭だが、「笠井が褒めるような映画」というのは、ジャンルとして、ある。ここでいう「笠井」それは、負の意味でのエンターテインメントを、象徴、するものだ。この文脈では、象徴、だって、ある。

サラリーマンが生活動線に組み込んで自己満足に浸るようなエンターテインメント性がリディックを見ているあいだじゅうちらつき、邪魔だった。

笠井が生きれば生きるほど、ボクは生きにくさを感じる。

死ねばいいのに。

浜ちゃんが最近ダウンタウンDXで使う「死ねばいいのに」。視聴者には消化されているのだろうか。ここでもテレビブロスの主婦的ベクトルと発信側との齟齬を感じる。

眠くて仕方ないのでミスタードーナツでコーヒーを飲む。

途中、「覚えてないの? 同じクラスの○○」みたいなことを女子高生が言っているドラマの撮影を横切った。

ポンDEライオンの人形付きキッズセットはもう販売終了しており、無念。あのライオンに対して僕は「面白い人」という認識をしている。尊敬というのがいちばん近い。

高橋源一郎の『一億三千万人のための小説教室』を丸丸読む。

小説家志望の志望を全肯定してくれており、返って信頼できる。その分だけの厳しさもあって。読むのも書くのも、フィジカルが要るのだと意識する。

つづいて『マリア様がみてる レイニーブルー』より「黄薔薇注意報」を。僕は由乃さんに、剣道は続けて欲しくない。しかし剣道をやらない由乃さんも、由乃さんではないと思う。手術前の人形のような由乃さんから、実は人形でない由乃さん、次のステップに進まなければならないのだ(今野先生も、ここへ来て遅ればせながら着手したというわけだ、後書きによると当時病気などもしながら。感謝)、彼女も、僕も。

続いて「レイニーブルー」も読み移ったところでミスドの二階が閉鎖。コーヒーのお代わりを一度も持ってこなかった。このまま一階に降りていいかと尋ねると、慣例上無理だと断られた。

憤懣としつつチャリで帰宅途中、本多劇場の近く、正確にはペッパーランチ脇の路地に取り巻きを数人連れた竹中直人がいた。