「萌え」の構造 覚書 〜出しとかないと、気持ち悪くて〜

0.ええ、最近一日13時間を五日連続、とかでバイトしてまして、人生初なんですが、そのバイトが暇でして、休憩が五時間あって、勤務中も一人でぼんやりできるという環境なので、本が一冊読めるわけです、一日。さらに勤務中に熟成させちゃったりで、一日にこんなことが去来するのですが、ねねね先生じゃないけど本当に「出しとかないと気持ち悪くて」、睡眠時間を削って四時間でかきあげこしちゃいました。いずれちゃんと本とか照らしながら、読む本も読んで、書き直しますので、とりあえず覚書。明日二台目のビデオデッキ買います。そうしないと「シノブ伝」と「マリみて」を別の専用テープに録画できないから。先週のアニメはまた土曜日辺りにでも書きます。

書いた人は、女子高生に読んでもらいたそうです。


1.「かわいい」は「ずるい」

 川上弘美『神様』を読んでいて、ある感想を持ちました。
「かわいい」ものは、「ずるい」と。
 なぜ「ずるい」のかというと、「かわいい」という一点で、その他のマイナス面を「許せてしまう」、免罪符的な役割を果たしているからです。そして自然とあるキーワードが去来しました。
「萌え」です。
「萌え」は、その要素だけで他のマイナス面を許して貰えるという、言わば「甘え」に基づいて、存在しているのではないか、と思ったのです。
 すぐに「萌えの構造」という言葉が浮かびました。インターネットに氾濫していそうな言葉だな、と。この言葉の出典は80年代のベストセラー『「甘え」の構造』であり、その更に親玉が、すでに古典である『「いき」の構造』であることは、あるいは言うまでもないかもしれません。
 前者を僕は読んだことがありません。ただ、あまりいい印象を持っていません。学生時代、木津計という人の書いた『上方の笑い』という新書判の本を読んでいて、「ビートたけしらの笑いは、結局「甘えの構造」に基づいているのだ」というような文を見つけ、不快に思ったのです。「いき」の構造を語ることが「粋」に反する行為であったことと同様、「甘え」の構造を語る際に、「甘え」を排除することができなかったであろうと想像されることも、悪印象の一要因です。
 ともかく、「甘え」の構造、という言葉が僕に「笑い」という言葉を連想させるのに、複雑な手続きは必要ありませんでした。そして、
「笑い」と「萌え」は、似ているのではないか。
 気づけばその仮説ができあがっていました。できあがってみると、どうでしょう。共通点がいくつも、苦労なく飛び出してきたのです。そして筆者は、しまったと思いました。面倒くさいことに気づいてしまった、と。というのも、筆者の自称する職業は「放送作家」、つまり筆者は「お笑い」の人間であって、同時に自他共に認める(職業では、他はあまり認めてもらっていません)、アニメオタクなのです。それらが両方とも「実(=金)になっていない」秘密が、双方の共通点にあるのではないかという、根源的な問いが、生まれてしまったのです。
 どうやら「自他共に認める」過程で、「我思う、故に我在り」を経験しなければならないようだ、と観念し、本文を書き始めたというわけです。ニートな若者である筆者にとって、それは非常に面倒なことだとご同情頂けると信じています。


2.「笑い」と「萌え」の共通点

 まず、「両方とも、語られることを拒否している」という点です。もともこもないような言い方ですが、このことは考えれば考えるほど重要になってきます。「人は何故笑うのか」「笑いとは何か」といった類いの「笑い」研究本は、例えば図書館に行けば累々とあります。日本語で書かれた学術的なものだけでも数百冊、翻訳本も合わせれば千以上あるかもしれません。とても「語られることを拒否している」とは言えないだろう、と思うでしょう。しかし、それだけ語られ続けているということは、まだ誰にも、きちんとした結論が導かれていないからに他なりません。作家であり、何より日本随一の喜劇作者である井上ひさし先生は、なぜ先生と呼ぶかというと、彼が講師を務めるセミナーを筆者が受講したことがあるからなのですが、そのセミナーで先生はこう断じました。
「笑いとは何か。何故人は笑うのか。そんなものは分かりません」
 と。古くはアリストテレスから始まり、近くはニーチェフロイトベルグソン・・・、殆どの「天才的に頭の良い人」たちが「笑いとは何か」と考えてきたのに、未だ答えが出ていない。ということは、「誰もわからない」じゃないか、と。実際「笑い」は、個々の「笑い」を分析することは出来ても、広く定義づけしようとすれば、必ずアラが出てしまう。ベルグソンが著書『笑い』の冒頭で言うように、とらえたと思えばするりと逃げてしまうものなのです。それも、数千年間、人類の英知を集めても、そうなのです。「語られることを拒否している」と断言することに、問題はないはずです。
 では「萌え」はどうでしょう。諸説ありますが、この言葉の成り立ちはごく最近で、早くても1980年代後半にでき上がったというのが一般的です。しかも、その短い間にもあらゆる定義付けが試みられています。しかし、「笑い」の場合と同じく、個々の「萌え」を分析、説明しているだけに過ぎないという印象があります。試しにGoogleで「萌えの構造」と検索してみるとよいでしょう。大塚英志ササキバラゴウの引用(彼らの分析については、後に触れる必要があります)以外に、まともに「語れている」ものが見つかったでしょうか。もし見つかったとしても、それは、個々のケースの分析に、あなたの「萌え」感が合致し、共感を覚えたというだけではないか、もう一度考えてみてください。
「笑い」でもそうなのですが、しかし、語ろうとする主体は、死にません。むしろ「語れない」と分かってからが、しぶといのです。それは「笑い」や「萌え」といったのと同様、人間の本来的な欲求だと言えるかもしれません。

 無理やり最後の太字を導き出したように思えたかもしれませんが、実はそのとおりで、「笑い」と「萌え」、第二の共通点として上げたいのが、これらが人間の本来的な欲求、つまりは「無意識」と深く関わっているからではないかと疑うからです。
 笑う瞬間、脳では思考は停止されます。これは、化学的に立証されているのですが、そうでなくても、笑いが起こる瞬間人間が無思考だということは、当の本人である皆さんがよくわかっているはずです。
 いや、待て。俺は笑っているときも考えることがある。適当なことを言うなと怒る人、あなたは正しい。なぜならば、「笑い」には無意識なものとそうでないものの、二種類が確認されているからです。色々呼び方はありますが、ここでは一種類目(無思考の笑い)を「動物的(生理的)笑い」、二種類目(考える笑い)を「社会的笑い」と呼ぶことにします。
「すべての笑いは社会的である」と、例えばベルグソンは言いきってしまいましたが、それはある程度確信犯的で、社会的な笑いは、動物的笑いの「応用」である分だけ、少しは「語りやすい」のです。しかし「人は何故笑うのか」と聞かれて、「笑いを用いるべき社会的理由があるからだ」と答えたのでは、それこそニワトリとタマゴになってしまいます。動物的笑いが先んじていることは間違いありません。本当かな、と疑り深いあなたのために「トリビア」を一つ打つならば、動物的、という名のとおり、動物も「笑う」のです。チンパンジーの笑いなどは有名で、くすぐったりすると、彼らは「まるで人間のように」笑います。ニワトリとタマゴはともかく、チンパンジーと人間、どちらが先かと言えば、さすがに答えは一つでしょう。「社会的笑い」を語ることは「社会」を語っているに等しく、正確に「笑い」を語ったことにはならないのです。(もちろん、「笑い」を語る手段として「社会」を語るという手法を否定しません。ここでは「笑い」の「語りにくさ」を知らせるため、先達の偉大な功績の多くを「なかったこと」としてしまいましたが、それは筆者の本意ではありません)
 では「萌え」はどうでしょう。「萌え」る瞬間、あなたは無思考であるはずです。言葉で表せないものの総称として「萌え」と「名付けた」に過ぎません。「萌え」ている瞬間、笑顔に似た表情であることから、もしかすると「萌え」は「笑い」の一種だと言えなくもない、かもしれません。
 ここで、三省堂の辞書をようやく引用します。

もえ【萌え】
ある人物やものに対して,深い思い込みを抱くようす。その対象は実在するものだけでなく、アニメーションのキャラクターなど空想上のものにもおよぶ。〔アニメ愛好家の一部が、NHKのアニメーション「恐竜惑星」のヒロイン「鷺沢萌」に対して抱く、ロリータ-コンプレックスの感情に始まるといわれるが,その語源にも諸説ある〕(デイリー新語辞典

 インターネット上にある「萌えの構造」の多く、いや全てと言ってもよいかもしれないほど多く引用されていたこの辞書的「萌え」の定義ですが、これを「萌え」とは何か、という問いの答えとするのは早合点です。なぜなら「新語辞典」と銘打たれたこの辞書の背表紙だけでも明らかなように、これは言葉の権威争いにおいて、先手を打ったというだけなのです。極端な話、「新すぃー日本語」と同レベルでの「定義」なわけです。
「笑い」にしても実は同じです。言葉の意味を言葉を示すというのは、すでに「社会的」なのですから。例えば「笑い」は、

結果としての「可笑しみ」を感じたときに、突発的に、時に連続して排出される吐息のこと、その音、またその行為自体をさす。

 と、これでは辞書の意味をなさないので辞書には載りませんが、「医学的には」(医学書にはどうなっているか知らないので無責任ながら言ってしまえば)、このようなものであると言えます。「萌え」もまたしかりで、「もわぁってなる」とか「きゅんとする」などの「症状」を医学的にどう表すか分かりませんが、それこそが、動物的な、本来の「萌え」であることに違いありません。

 第三の共通点として、その「目的」があげられるのですが、これはそれこそ「社会的」なものとなるので、次項に場所を改めたいと思います。
・ 「笑い」「萌え」は本来、動物的な自然現象である。
・ ゆえに、「社会的」なものである「語り」を拒否している。
 という、二点だけ、合点していただけましたでしょうか。


3.「笑い」と「お笑い」〜もう一つのニワトリとタマゴ〜

 お笑い芸人が「お笑い」を省略して「笑い」と呼ぶことが多くありますが、その延長線上で、「笑い」は「お笑い」の省略語としても用いられます。が、厳密に「笑い」と「お笑い」は別のものです。前項で二分した「動物的」「社会的」とほぼ同じことになりますが、どう考えても社会的だと考えられる「お笑い」の方は、端的に言えば「商品」なのです。「萌え」との比較上、現代の話になりますが古今東西、そうであったと考えてよいでしょう。
 同じように、「萌えること」としての(動物的行為としての)「萌え」(「笑い」にあたる)とは別に、社会的な「萌え」(「お笑い」にあたる)というのは、「商品」に違いありません。正確には、「お笑い」及びそれと平行した意味における「萌え」は、その「商品化」を絶対の「目的」としている、と言えます。そこに、お笑いであれば「芸」が、「萌え」であれば絵の質、脚本の完成度などが作り手に無視され、ユーザーもそういう環境に麻痺してくるということが起こってきます。それは両者が抱える最大の問題点であるとも言えます。なぜそのようなことになるのか。
 『動物化するポストモダン』で東浩紀が打ち出して識者(大塚英志らも含む)の間でおおよそ定着していて、別にユーザー側にも否定する要素がない、つまりはおそらく「正解」である説が、「記号」としての「萌え」です。「萌え」とは要素パターン=記号の集合体であり、その「受容体」如何で「萌え」が発生するというものです。
「コピー性」の問題とも言えるこれは、実は、お笑いにも全く当てはまることなのです。ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』で、「アウラ(「オーラ」と呼び変えたほうがイメージしやすいでしょうか。よく「芸能人にはある」と語られるあれです)の崩壊」という言葉を使います。たとえばサンピエトロ大聖堂に足を踏み入れたときの「うわぁっ」という感覚、が「アウラ」であり、そあれは「一回性」に準拠するものです。しかし壁画や神像が「複製」化され、写真等で見知った大聖堂に入ったところで、「あれあれ、写真と同じ」くらいの感動しか得られません。ベンヤミンは別にそのことを嘆いているのでないのですが、そのことで「芸術」の変容が起こるだろうと、確信を持った予言をしています。
 現在、例えば「芸能人のオーラ」は、「テレビに出ている合計時間」に、全く比例します。これは断言できます。「芸術」の端くれでありたいお笑いの「芸」が、テレビから撤収されてしまっている理由です。「お笑いは芸術だ」などと言われると、え、と疑問に思うでしょう。それが、「芸」はいらないどころか、邪魔なのだと作り手側に植え付けられている証拠です。そのような中で「売れる」のが、女子中高生に「ワーキャー」言われる、吉本興業を中心とした「主流」の規格に適合した芸人、から「芸」の文字を廃した「お笑いタレント」というわけです。ここであることに気づいてしまいます。買い手としての実権を握らされている女子中高生が「商品」であるお笑いタレントに対して抱いている感情は、そう、「萌え」と言い換えてなんら支障のない感情なのです。ユーザーからすれば「笑う」ことが目的であるはずの「お笑い」は、「萌え」に似た感覚に変換されているのです。そこには「萌え」の「記号パターン説」もぴったり当てはまることがわかるでしょう。こうして人間本来の生理現象である「笑い」は、無味乾燥なものになっていきます。これはもう、どう考えても「生理不順」なのです。
 アニメ・漫画においては、さすがにお笑いの「芸」に当たる技術が不要だとは言いえませんが、「お笑い」と「笑い」の関係と同様の生理不順が起こっていることは確かです。「お笑い」で女子高生にあたる、いわゆる「オタク」の人たちは、ある程度自覚的に生理をコントロールされているわけですから、「お笑い」よりはマシだと言えるかもしれませんが、程度の差はあれユーザーは「萌え」られれば/「お笑い」であれば、「クオリティ」が低くても/「笑い」がなくても「許せる」。その諦観が麻痺して前提となり、「萌えられるもの」だけが「萌え」、「お笑い」だけが「笑い」という逆転現象が、いつのまにか、起こっているのです。


4.「ウケる技術」なんてクソ食らえ

 笑えるという意味で、何の生理現象も顔面に表さないまま「ウケる」とうそぶく女子中高生は、なるほど「時代をリードしている」に違いありません。が、その実しっかりと手綱を握られ、大人=ディレクターにリードされているのではないですか、ということです。あえてオヤジ目線で書きますが、援助交際を「してやってる」と頭の中で処理しながらも、行為自体のリードは当たり前のようにオヤジが握っていて、少女はただ大型回遊魚のようにじっと我慢しているという傍目から見ても屈辱的な姿と、筆者には重なって見えて仕方ありません。
『ウケる技術』という本があり、それは驚いたことに、「お笑い(これまで語ってきた、悲劇的な意味での)」のセオリーを駆使して、社会生活をマットーに生きるためのマニュアルなのだそうです。読んだことがありませんが、この本が目的としている「ウケる」というのが、屈辱的な意味での「ウケる」と完璧に同義であることは疑いようがないわけで、このような「思考停止」スパイラルの根源を断たないことには、冗談でなく、本当に、世界が破滅してしまい兼ねません。
 根源と言っても相当根の深いものなのでしょうが、表に顔を出した部分のひとつ、つまり我々の「目に見える部分」に、注意してみましょう。すると、冒頭の疑問が、少し輪郭を明瞭にさせてきたように思えます。
「許される」という「甘え」に基づいて、「お笑い」や「萌え」はそもそも存在するのではないかという、疑問。


5.「甘え」と「お笑い」、「甘え」と「萌え」

 筆者が『「甘え」の構造』を未だ読んでいないとは先に言った通りです。とりあえずこれは「覚書」なので、このまま読まずに書きます(今までだって、ネットで辞書の部分をコピーしたくらいで何の本にも当たっていません。だから引用なんかは信用しないでくださいね)。
「甘え」と「笑い」「萌え」を関連させる媒体として、「自己矛盾」という言葉が有効だと思います。作り手の「甘え」に応え、なぜ「許せる」に至るのかということです。それは「思考停止」している自分に対する危機感です。危機感を持たないから世界滅亡の危機が迫ってきているわけですが、誰でも最初は、危機感を持ったはずなのです。いいえ、今でも、「笑う」たび、「萌える」たびに小さな危機感は生まれているのです。ただ、それが自動処理で消去されているだけで。それを、まさに萌えるかのように芽吹いたその危機感に、水をやってみること。それが、世界を救うためにあなたが、我々ができる第一歩だと思います。
 漫才ブームを支えた「ホンネ」の笑いが「甘えの構造」に依拠しているという説は、現在のバラエティ番組が基本的には当時のコピーとしてスパイラルしている現状を思えば、あながち的外れな意見ではないのかもしれません。やっと、筆者にとっても新たな発見がありました。同時に、書く気力が段々と薄らいできました。


6.真の「笑い」、真の「萌え」を取り戻すために

 振り返れば筆者は女子高生とオタクに「世界は君を陥れようとしている。関わり、変わりなさい」と働き掛けるという、無謀なことをやって来ているようながします。
 筆者なんかは、ぶっちゃけ、萌えも笑いも分かりません。ただ、劇団ひとりを見て笑い、『KURAU』のクリスマスに恋をします。それが「やっていること」なのか、「やらされていること」なのか悩みながら。お笑いやアニメ・漫画だけではなく、全ての表現に、ひっかかりは不可欠だと、この勢いで言ってしまいたいと思います。だから、やっぱり、セカチューで無防備に泣いてしまってはいけない。それは『華氏911』を見て怒る、という行為と、ひいてはブッシュに投票するという行為と、同等の重さで「世界に作用する」のですから、例えばの話、ですが。
 あえて結論じみたことを言うならば、「停滞」を前提として受け止めるな、ということになります。お笑い及びアニメ・漫画業界の現状は、天然自然に育ったものでも、洗練されたものでもありません。そのように見えるのは、どうしようもなく、行き詰まっているからです。これを、一時的な「停滞」だと考えましょう。きっと、打ち破れるはずです。みなさんの力で打ち破りましょう。そして、こんなことではいつまで経っても「売れる」ことができない筆者を、住みやすい世界へ案内してください! お願いします!!