脱オタファッション論争

http://kammyblog.seesaa.net/article/10674255.html

上のリンクは『電車男スタイリング・バイブル』という本に対するレビューに対し、著者を交えて「脱オタファッション」が(たぶん)現実問題である人たちが議論を交わしている、あるブログの記事である。

基本的に、ブログの作者および本に否定的なコメントをしている(たぶんオタクの)人たちの意見に賛成なのだが、平行線を辿る論争に、隔靴掻痒の感を拭いきれない。思うに、脱オタファッション論争に欠けているのは、すげー勝手な物言いに聞こえるだろうが、愛とユーモアではないかと思う。

電車男的希望」という言葉を、少し前から私は使っている。ハタチそこそこのオタクが「まだ若いから、いつでも脱オタして、月9みたいな生活を送れるようになる」という意識を左ポッケに、そして右ポッケに「俺のオタ知識は、オタクリエイティブ界では即戦力になる。これは『経験』なのだ」という意識を潜ませているという、根拠のない、しかしリアルな(だって社会がメディアを通して彼らに見せ、感じ、生きさせている『現実』ってそういうものだから)「希望」を指してそう呼ぶ。

電車男』なんてファンタジーが今なお「一般的」には虚実皮膜であり続けられる理由も、社会が「電車男的希望」を若者に抱かせているからに相違ない。

若いニートの多くが持っているであろうその希望は、シゴト、恋愛双方における「即戦力幻想」によって支えられている。月9をモデルに生き、恋愛資本主義経済に貢献することが「立派な社会人」である、と、まったく「家庭の事情」とでも言うべき経済上の理由から、社会はオタクたちに左ポッケの重みを説くのである。

巷に氾濫する「脱オタファッションのススメ」は、今のところ多数派である恋愛至上主義を盲目的に「絶対正義」とし、「正しい方向」に経済を回させようとしている(=させられている=「社会」の歯車として)のだ、という視点を、例えば『電車男スタイリング・バイブル』の著者は、持っていない。持っていないから、ピュアに「少しでもファッションの楽しさを」とか、客観的にバカとも思えるモチベーションが持てる。発信者がそこに盲目であるかぎり(=社会によって支えられた「自己」を肯定するかぎり)、議論は無味乾燥なものに終始する。要するに他者への想像力=最初の方でとりあえず「愛」と呼んでおいたものが、欠如しているのである。

『電車男スタイリング・バイブル』の著者が、マスコミの生み出したムーヴメントにインスパイヤされ、乗っかり、本を出したいと思った。その際にまず持ったであろう「本が売れたら生活がよくなるのではという希望」は、だから、個人的には肯定したい。しかし、その根底にある、オタクへの想像力の欠如(「少しでもファッションのことを」的盲目)は肯定しがたい。

私が「電車男的希望」という言葉を(ファミレスで友達と話をするときのタームとして)使い始めたのは、それ=社会が若者に抱かせている「希望」は、しかし、当の社会(さしあたり、企業)にとって「実害」であるという現実もあるという文脈上であった。左ポッケの話は上段のもので終わりなのだが、右ポッケの話を、つまり最初の方で「ユーモア」と呼んだものの方の話を補足的にするとすれば、書いたとき私は、右ポッケを肯定するつもりだった。「オタクリエイティヴ界で、若いオタクは常に『即戦力』である」という幻想を。しかし、ファミ通のアンケートでゲーム企業がその幻想に「NO」を提示した。「オタクは、即戦力幻想持って入ってくるけど、迷惑だそんなもん」と。

・・・ファミ通のアンケートでリンクした日記でもまだブレが見られるのだが、たぶん、社会の実害、という言い回しに無理があるのだろう。たしかにニートを支える即戦力幻想≒思想=若者のカン違いは、経済を圧迫しているので実害と見なされているが、それを置いておけば、大人にとって、過去の自分を見ているのと同じ気恥ずかしさを感じ、イラっとくるというだけだ。とりあえず「実害」→「イラっ」をして「右ポッケの肯定」としておきたい。逆に言えば、それ以上に右ポッケを肯定するつもりはない。

右ポッケの話は脱オタファッションとぜんぜん関係ない話のように聞こえるかもしれないが、なんでこんなことを言っているかというと、右ポッケ的(=「俺のオタク知識を持ってすればオタクリエイティヴ界でバリバリやれるぜ」的)即戦力幻想が、最終的に「センス」というキーワード収斂されてゆくからである。右ポッケと左ポッケを貫くもの、それが「センス」なのである。「センス」というものは、よっぽどの天才でもない限り、結局市場の手のひらの上で転がされているだけで、左ポッケで言う「自己」と全く同じモノなのだが、それが見えない人はこの魅力的な武器を、しばしば、纏う。

売れっ子デザイナー>メトロセクシャル=オタク<売れっ子ゲームクリエイター(もしくはラノベ作家)という構図。自己≒センスを肯定する限り、それは同じコインの表と裏なのである。そこで、ユーモアと言った。ユーモアは、コインのどちらかの面を地に押し付けるがごとき極端な思考から逃れるための、足になるはずだ。

以上をふまえて、もう一度言う。

脱オタファッション論争」に欠けているのは、愛とユーモアである。