あってない。

Yahoo! JAPAN文学賞」(http://bungakushou.yahoo.co.jp/)正式応募作品全文掲載

『A☆SHI☆TA』(『台風の耳』を改題)

 午後四時。わたしは映画の中にでも放り込まれたような錯覚に囚われていた。人や車が微かな軌跡を残して行き交い、民家の庭や駐車場を囲むブロック塀はその輪郭を曖昧にし、赤みがかった空の下で、雲と一体化しているようだ。また、視界の五分の一ほどを占める緑はそれぞれ引き締まっており、孤独という言葉が似合いそうな佇まいで強い風に反応していた。職場の門の前を横に走る、小型トラックが二台すれ違える広さの、傾斜の緩い坂道。見慣れ、見飽きたはずの景色がわたしに違和感を与えるのは恐らく、戦後最大級の、とテレビのニュースで前置きされる、台風が接近しているせいだ。
 公共の建物らしく立派に造られた門から出てゆく人もまばらとなった頃、バッグの中の電話が震え、わたしは現実に引き戻された。彼からのメールだった。ディスプレイに示された時刻は午後四時二十五分。少なくとも十分以上は景色に見とれていたことになる。
 一週間前、会社で彼と再会した時のことを思い出す。専門学校を卒業して以来なので、二年振りだった。共通の知人を介して何度か話したことあるだけの関係だったが、顔ははっきり覚えていた。名前がすぐに出てこなかったので、当時呼ばれていたあだ名を呼び掛けるでもなく呟くと、後頭部が強ばったような気がしたが彼は振り返らない。別に話し掛けなくてもいいかと思い通り過ぎようとした時、名前を思い出した。
「高梨君?」前に回り込んで彼の正面に立つ。プラスチックのような白目に囲まれた、点のような黒目が一秒間に二回転した。長い間忘れていた感覚を思い出したような気分になり微かに身を乗り出してのぞき込むと、今度は一秒間に四回転。磁石のおもちゃのようだとわたしは表情に出さず笑った。お互いの今の立場などを少し話して、わたしの方から電話番号とアドレスを交換しようと持ちかけた。なぜか分からないまま、そうしていた。
 彼、高梨弘のメールは、無機質だった。あれから毎日数通、時には十通以上メールをやりとりしたが、高梨自身の言葉が送られてきたことは一度もないのではないかとわたしは思う。話題がずれているわけではない。どうしても付きあわなければならない会社の飲み会などで話す年配の上司などとは話題からしてずれているが、高梨と話すのは、ファッションや映画、音楽の話であり、共通の知人の話であり、これも共通である、仕事の話だった。具体的に何のかは分からないが、わたしが高梨とメールするのは、「確認作業」という言葉が最適だと思われた。
《台風のせいで今日早上がりになったよ 雨はまだみたいだけど今日どうする?(笑)》
 電話でも少し話して(電話をかけてくるのは必ず彼だった)、今日の夜会って食事でもという話になっていた。会おうと言い出したのはどちらだったか、わたしははっきり思い出せなかったが、過去のメールを見てまで確かめる気にはなれない。返事を打とうかとも考えたが、携帯電話をバッグにしまい、とりあえずバスの車窓に流れる景色を楽しむことにした。

 

 マンションに戻り、服も着替えずに窓を開ける。電柱の間に張り渡された電線が、昨日買ったホッキョクグマの写真集に載っていたオーロラのように見えた。風は強いが、雨はまだ降っていない。逸れてしまったのだろうかと思うと同時に、高梨のことを思い出した。窓と鍵、それからカーテンを閉める。自分から思い立っての行動だったが、再び景色を眺める邪魔をされたという感覚が沸き起こり、軽く舌打ちする。
《台風それちゃったのかな?雨降らないね。今何してたの?》
 送信ボタンを押してすぐにソファに電話を放り投げ、一連の行動に少しだけ後ろめたさを感じながらテレビのスイッチを入れる。少し前にやっていたドラマの再放送だ。画面の右下に堂々と日本地図が重ね映され、台風の現在位置や予想進路が示されている。戦後最大級だけあって、さすがに今まで見てきた中でもかなり大きく、目もはっきりした台風9号の画像に少し見とれた。目というより、耳の穴に似ていると思った。画面下に流れるテロップによると、非常に強いそれは関東地方を逸れ、勢力を保ったまま北進中とのことだった。つまらない。台風で喜ぶ年齢でもないのだが、ついでにこれも彼のせいにして、今度は思いきり舌打ちした。ほぼ同時に電話が鳴ると、一転して軽やかに、わたしは黄色い一人掛けソファに飛び込んだ。
《筋トレしてたよ。台風それたねじゃああう?(笑)》
 早打ちなのか、電話会社が違うからなのか、句読点と漢字変換が微妙におかしい、いつもの無機質なメール。「(笑)」を多用するのも特徴の一つだった。このことに気付いたのは、電話で話した時に彼の笑い声が気になったからだ。わたしが笑わせようと言ったことに対して、それを理解した上で笑うのではなく、試されたことを誤魔化すように、「はははは!」と笑う。「はは!」や「は!」の時もある。鳴くのが下手な野良猫みたいに、高梨は笑うのが下手な、可哀想な子なのだろうとわたしは思う。他人を笑わせたことはないだろうし、自分も心から笑ったこともないんじゃないかと。つい先ほどまで、今日は会わないつもりでいたが、あの笑い声を間近で聞きたくなって、初めてわたしの方から電話した。夜九時に高梨の地元、三軒茶屋で待ち合わせることに決まった。待ち合わせの少し遅くしたのはセックスを匂わせるためだ。電話でそれとなく伝えた時の反応で、わたしは高梨がまだ童貞だと確信した。家を出る直前にまたメールが来たが、未読のまま消去した。

 

 高梨はジーンズに緑のノースリーブという格好で、太い柱に不格好に寄りかかり、煙草を吸いながら待っていた。明るめの黄色に染めた髪の毛を真ん中で分けている。前髪がさっくりと割れていて、広い額が少しだけ覗いている。ボトムの少し広がったジーンズは所々に切れ目が入っているデザインで、隙間から白い肌が見える。数時間後、この子とセックスするのだと思うと、今日の夕景を眺めているときのような、非現実感に纏われた。
「待った?」
 そう言いながら正面に立ち、そこからさらに半歩、近づいてみた。微かにメンソールの香りがした。彼は苦笑に似た顔で煙草の煙を吐き出し、「んん、んじゃ行こうか」と素っ気なく言い、煙草を踏み消した。煙草を吸うことそれ自体が、彼にとって「イベント」なのだ。素っ気ない態度は、童貞であることを隠しているからだろうか。予約したというレストランに先導する彼の後頭部を凝視していると、一度唐突に振り返り、「何だよ」と、苦笑した。この苦笑こそが彼の笑顔なのだと気づくまでに、あと数度、同じ苦笑を見ることになった。
 キャロットタワーという、三軒茶屋のランドマークらしいビルの地下にある、イタリア料理屋に入った。メニューを眺める彼の目を見つめると、再会したときと同じように一秒間に四回転し、そのうちの一瞬、目が合った。
 地下なのでせっかく「タワー」なのに景色は楽しめないが、カジュアルで悪い店ではないとわたしが自分に言い聞かせていると、つやつやとした黒髪の、わたしより少し年下に見えるウェイトレスがボトルワインとシーザーサラダを運んできた。ワイングラスを手にした高梨の絵面が何故か本日最高潮の嫌悪感を沸き立たせ、わたしは慌てて「シーザーサラダのシーザーってどういう意味なのかな?」と言った。高梨は「ハハハハ!」と笑って「何だよ急に」と目を伏せ、また「ハハ!」と力なく笑った。
 食事の間は話をしなくても許されるのだと主張するかのように、高梨は黙々とピザやパスタを食べている。わたしは正直なところ、同じ皿で彼と食事を取り分けるのに少し抵抗があった。彼の食べ方は汚かった。手元に落ちているとうもろこしの粒を見て、少し吐き気がした。その吐き気に対して自分で少し可笑しくなってしまって、唇を結んだ。さらにピザばかり食べていることを気付かれたらどう言い訳しようかと考え、とんねるずのテレビのようだと思うと一気に笑いが込み上げてきて、ついには吹き出してしまった。震える口にグラスを近づけ、気持ちを落ち着かせる。高梨は、一瞬強ばっただけで、やはり黙々と食べ続けた。

 

 たっぷりと湿気を帯びた風がミニスカートの太ももを心地よく撫でてゆく。水性絵の具を全色混ぜたような色の雲が一定の速度で移動し、隙間からは星も見える。夕方と違って現実的な空だと、わたしは空を見上げながら思う。「↓渋谷」と大きな青い表示板に書かれた方に向かって、しばらく二人で歩いた。最初の数分、わたしは高梨の隣に位置取り会話しようと努力していたが、大きなトレーラーが二台続けて轟音を響かせ通り過ぎたのを境にやめた。元々この子と本当の会話なんて合計一秒だってできてないのだ、この子に何か言うのは、テレビの画面に映っていた台風、あの「耳」に向かって何か叫ぶようなものだ。そう思うと、わたしは妙に充足した心地になった。
 三軒茶屋には意外とラブホテルが少なく、十五分以上歩いてようやく一件の古めかしいネオンを備えた建物を見つけた。「三軒茶屋ホテル」。近くで見るとどことなく昭和の匂いがする。学生運動をしていた人たちがここに入ってセックスするところを想像すると、気分が沈んできた。
「じゃあ、入ろうか」と高梨は青春ドラマか少女マンガのように畏まり、ハハッと笑った。ホテルというより「連れ込み宿」といった方が自然だと思える「三軒茶屋ホテル」は何と受付のおばさんが部屋まで案内してくれるというシステムで、これはわたしを昂ぶらせた。
 ベッドに座り、彼と目が合う。今日何回目だろう。三回か四回だ。わたしが彼の目を見ている時彼は常に逃げようとしているし、逆に彼がわたしの方を見て何か話す時は、決まって取って付けたような、面白みのない話題や台詞だったので、退屈を悟られるのが不安なわたしは目を逸らしていた。それでも交通事故のように目が合った時、彼はもれなく目を泳がせて向かって右下に逸らし、唇をめくって、笑顔、を見せた。今もそうだ。
「ビールとか飲む?」
「え?」
「ビールとか」
「や、いいわ」
 未経験の男の子とホテルに来た経験は何度かあった。気を遣うこと自体に嫌気がさしたわけではなく、遣った気を受け止めてもらうことをあきらめて、わたしは風呂場に湯をために入る。しゃがみ込んで右手で湯の温度を計るわたしを、ドアの後ろから高梨が見下ろしていた。
「何?」
 意地悪な問いかけだとは分かっていた。わたしが今までつきあってきた男は、こうして自分の「底」がばれそうになった時、突如として暴力性を発揮した。今の恋人に最初に殴られたのも、今と似た状況だった。この子もわたしを殴るだろうかと、わたしは期待半分、恐怖半分の感覚を愉しんだ。
「いや、入るなら一緒に入ろうかなと思って」
 こういう風に受け流された時は激昂するつもりだったが、興味と悪戯心が先立ち、間髪入れずに返してしまう。
「いつも、一緒に入る人なんだ?」
 高梨は自分が未経験だと告白した。このタイミングは、わたしの計算外だった。どこか誇らし気にも見える、不自然で複雑な表情は彼の「守る物」の多さを示している。「めんどくさいな」とわたしは少し大きめの声で言ったが、高梨にはその声が「本当に」聞こえなかったようで、矢継ぎ早に何度も聞き返しながら不自然に近付いてきて、そのまま、わたしの方から唇を重ねた。
「キスも初めて?」
 少しだけ唇を離し、できるだけ皮肉っぽく訊ねる。満足げにうなずく高梨に対し、わたしの下腹部辺りから、暴力的な感情が沸き起る。しかし、再び合わされるのを期待して微動している唇の縦皺を見ているうち、今どんなに攻撃的な態度に出ても高梨の「勝ち」なのだと悟った。お風呂わたし先入るね、と言って体を離し、一緒に浴室を出る。ホーロー製の洗面台には粘性の強そうな真緑色のハンドソープが置いてあり、鏡を侵食して備え付けられた棚状のスペースに、マウスウォッシュ、歯ブラシ、ヘアトニック、輪ゴムと綿棒とコットンがパックされた小袋が並べてある。わたしは、高梨がドアのノブに手をかける直前、勢い良く出した水で口を濯いだ。
 風呂から上がると、トランクスと靴下だけになった高梨がバスローブ姿のわたしに向かって「――さんのハダカ見たいな」と言った。「それ、けっこうキモいよ?」とできるだけ柔和でセクシーな笑顔、を作って応えた、つもりだったが、彼の眼球が、今までで一番激しく泳いだ。瞬間、やはり、殴られることを期待していた。
「え?」
「ん?」
「ハハハ!」
 ベッドでも高梨の連戦連勝は続くことになる。キスをし、胸なくてごめんねと謝りながら触られ、吸われ、頭を撫でてやる。固くなった彼のものを手で触る。半目で歯茎をむき出しにした高梨の唇が微かに震え、声がもれる。シックスナインの形になり、もごもごと指導。元に戻って一度キスを拒んでから、甘い声で導く。まずコンドームを着けてやり、膝を立てる。等々。すべて、その時々の選択においてわたしが折れた結果だった。
 意外な形で勝利を得られる選択肢が湧いて出た。彼はわたしのあそこに入れるともなくすぐいってしまって、ぐぐと聞こえる笑い方で笑ってキスを求めてきたのだ。慰めるという選択肢があったが、わたしは結局そうしなかった。
 頼んでさせた腕枕の中で、わたしは「告白」をした。あることないこと。全てに彼は、何も言ってないのと同じような回答をしてくれた。途中からあからさまに眠そうだったのがおかしかった。

 

 朝、わたしが七時に起きると高梨はもう起きていた。早めにホテルを出てマクドナルドで朝食をとる。窓の外は台風一過の土曜の朝だ。近くに女子高があるのだろうか、夏休みだろうというのに大きめの荷物を持った女生徒たちが真っ白な夏服にきらきらと朝日を反射させながら、アスファルトの道を流されてゆく。テレビで見た鮭の映像みたいだと言って微笑んだが、彼は窓の外が見えない角度からうなずき、いつもの笑い。
「昨日は、ありがとう」
 自分の声が、マンションの隣の部屋で喋っているように聞こえた。
「え?」
「相談とか、乗ってくれて」
 高梨は何かを考えるような表情をした。おそらく本当に何かを考えていたのだろう。彼の口が開きかけたと同時に、わたしは意識して頭を真っ白にしてみた。彼のように、聞きたくないことを自然に耳から締め出せればいいのにと思ったのだがかなわず、気がつくと、涙を流していた。
「ごめん」
「どした?」
 高梨の、ベッドでも出さなかったような甘い声が胸に焼け付いて、わたしは氷が溶け、ほとんどカルキ臭い水になっていたウーロン茶を一口飲んだ。
「ねえ」
「ん?」
「誰か殴ったことある?」
「はは!」
 沈黙。ほおづえを突いて、ガラス越しに空を見上げる。昨日見とれた景色はもうそこにはない。わたしは通り過ぎる女子高生を十五人数えてから高梨の方に向き直り、「次いつ会える?」と聞いた。わたしの今の恋人のことを聞いたからだろう、会わない方がいいというようなことを彼は言う。彼はやはり何も言っていない。何も言っていないから、聞いているわたしも、何も聞いていないのと同じだ。彼の得意技も、こういう仕組みになっているのかもしれない。
「じゃあ明日ね。夜七時にここのマックで」
 そう言ってわたしは大げさな笑顔を作った。「いやいや」とか言いながら彼が笑う。笑って、何か言っているが、内容は聞こえない。とうとう私も「台風の耳」を手に入れたのだろうか。何か言い続けている高梨を無視して席を立ち、外に出た。高速道路の高架から狭い空が覗いている。まだかなり強い風が周囲の音と景色を素早く流してゆく。その様子が可笑しくて、わたしは声を出して笑った。